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                    原田男爵家の多様性・多彩性 

 筆者は以前講談社より『華族総覧』を刊行したことから、記載華族について少なからぬ質問を受け、特に原田男爵家は質問の多い一つであった。その理由としては、下記のように、原田男爵家は、実に軍事・地質・貿易・美術・音楽・政治史上など幅広い領域において重要で有意義であった事も関係していよう。これほど多様でで多彩な展開を見せた華族はもとより、一般一族においても、他に類を見ないであろう。

 この一族は、多様性・多彩性において、卓越した意義・特徴を発揮しているが、実は多様性とは多くの平均的・一般的一族の現実でもあろう。今後の社会における一族の多様性を考える上で、この原田男爵家の多様性・多彩性は一つの材料を与えてくれるであろう。



                          原田一道 

                          一 兵学者

 西洋砲兵専門  近代原田家の創始者原田一道の履歴を見ると、天保元(1830)年8月に岡山藩支藩鴨方藩御典医の息子として岡山県浅口郡西大島村大字西大島で生まれ、嘉永3(1850)年に松平肥前守家臣伊藤玄朴に就き蘭学を学んだ。安政3(1856)年4月に蕃書調書出役教授手伝、同年11月に公儀御役所講武所御用となる(『原田熊雄関係文書』140号「履歴草案」)。

 大村益次郎(文政7[1824]年生まれ)は、安政3年11月に蕃書調書所教授手伝、安政4(1857)年11月に講武所で教授となって、原田一道と知り合い、互いに学殖の深さに敬意を抱きつつ、二人の交りは始まった。文久元(1861)年には益次郎は「英学の必要なるを知り原田吾一氏(今の陸軍少将原田一道君)と倶に米国の博士ヘブルン翁(所謂へボン、James Curtis Hepburn、医者)に就き英学を修」めたりしている(村田峯次郎『大村益次郎先生伝』明治25年、9頁)。村田清風の孫峯次郎が、長州先輩の益次郎の伝記を書くに際して、原田一道が後述の通り大村益次郎紀念祭(会)運営に非常に熱心なのを見て、二人の関係に何があったかに留意し、幕府講武所時代の約4、5年にわたる交流を発掘したのであろう。益次郎伝記は少なくないが、筆者が目を通した限りでは、本書以外で益次郎と一道の親密交流に触れたたものはなかった。最近刊行された木村紀八郎『大村益次郎伝』(鳥影社、2010年)にも山本栄一郎『幕末維新の仕事師『村田蔵六』大村益次郎』(2016年)にも二人の交流の事実は言及されていない。

 なお、二人の英学修業をへボン側から見ておけば、既に万延元年(1860年)4月に英国領事ユースデンは酒田隠岐守に英国公使館に日本語学校設置を提唱し、同年7月には米国領事ハリスが安藤対馬守に、日本少年を神奈川在留医師らの監督下に英語を学ばしめんと請うた(山本秀煌『新日本の開拓者 ゼ―・シー・ヘボン博士』聚芳閣、1926年、170頁)。既に、ハリスは、1857年(安政4年)に「下田奉行に属している幕府の外科医(伊東貫斎)」らの「頼み」で「英語をいくらか教えてい」たが、下田奉行に「領事としての私の権利・・が否認される限りは、その教授を断らなければならない」と通告した。同年1月17日、老中は下田奉行に、「其地滞在のアメリカ官吏(ハリス)より英学伝授の儀につき、相伺ひ候趣は苦しからず候間、諸事取締すぢ厚く心付け、稽古致させ候やう取計らはるべく候」とし、かつ「蕃所調所出役等のうちよりも、人物相選び、両人ほど差遣はせべく候間、前書のものども同様相心得、稽古致させ候やう致さるべく候」(『幕末関係文書』之十五[ハリス『日本滞在記』中、岩波文庫、昭和49年、232−3頁])とした。以後、ハリスは、安政5年(1858年)に大老井伊直弼と日米修好通商条約を締結して初代駐日公使となり、安政6年(1859年)に江戸の元麻布善福寺に公使館を置いたことから、こうした英学指導の経験を踏まえて、米国影響力を扶植しようとして、幕府に英語指導を提案したのであろう。

 そこで、幕府は益次郎、一道らにはかった所、二人はこのハリス建議に基づいて七人を選考したのであろう。ここに、文久元年(1861年)初めに「博士(へボン)が神奈川に寓居して居た頃、江戸政府は九人の身分ある青年を博士の許へ送って教育を委託し」てきたのである。これについて、へボンは、「1861年から1862年[横浜居留地に移る]にかけ江戸政府は優秀な青年数名を私の家に送り彼等に英語を通じて泰西の知識と科学とを教えることを委託してきた。これらの青年に対する私の関係は極めて愉快であったが、将軍政府の内訌と切迫した危機とによって呼び戻されてしまった」。この「切迫した危機」とは、益次郎は長州藩切迫事情(文久3年10月、益次郎は長州藩軍防強化のために萩へ帰る)、一道は幕府切迫事情(同年12月一道は横浜鎖港談判使節に随従して渡欧)なのであろう。へボンは、以後、青年らは内乱で死去したり、維新後に「栄誉の高官」になったが、この青年の人数や名前は忘れたと述べている(山本秀煌『新日本の開拓者 ゼ―・シー・ヘボン博士』、170−171頁)。益次郎、一道らが優秀な青年であったので、へボンは「愉快」だったのであろう。益次郎、一道も同じ医者でありつつも該博なへボンとの交流・質疑応答は愉快だったに違いない。
  
 文久3(1863)年8月20日に一道は海陸軍兵書取調方出役となり、同年12月17日に、一道は「仏蘭西国英吉利国其外へ爲御使被差遣者共へ差添へ被差遣候」となった。12月27日仏蘭西軍艦へ乗込み、元治元(1864)年3月仏蘭西国に到着した。攘夷派の要求する横浜鎖港の無意味・開国の重要性に気づき、交渉を途中で打ち切り、5月17日フランス政府とパリ約定を結んだ。

 一道は用済み後に、「池田筑後守様(正使)、河津駿河守様(副使)より爲兵学伝習 阿蘭陀国へ滞在可致旨」を申し渡されて、オランダに赴いた。当時オランダには榎本武揚(航海術)や西周・津田真道(ライデン大学で法律学政治学を研究)がいた。約1年間、一道はオランダで兵学を学んでいた所、慶応元(1865)年5月15日に「帰朝可致旨 因幡様へ被仰渡候間 其旨相心得早々帰航可致」きこととなり、7月9日にオランダを出国し、慶応2年正月13日に帰朝した(「履歴草案」[『原田熊雄関係文書』140号])。

 慶応4年の上野戦争前に幕府公務を辞し帰郷したが、大村益次郎らから西洋兵学の知識を評価されて、明治元年12月に徴士兵学校御用となる。2年3月には軍務官権判事を以て兵学校頭取、2年7月21日に兵学権助、4年2月に兼任兵学大教授となって桂太郎[長]、寺内正毅[長]、乃木希典[長]、長谷川好道[長]、道黒木為饉薩]、川村景明[薩]など陸軍幹部を教育した。

 4年10月22日に山田顕義陸軍少将理事官として欧米各国に差遣され、「随行被仰付」られ、11月11日に横浜出帆し、兵器などを調査して(三宅守常「理事官山田顕義の欧州兵制視察考」『日本大学史紀要』8号、2002年)、6年6月帰国し、7月13日陸軍大佐、9年7月8日に砲兵会議副議長、9年11月7日砲兵本廠御用掛兼勤、11年7月30日砲兵本廠御用掛兼勤免ざれ、12年に砲兵局長と、砲兵専門家として累進した。

 次いで、14年7月6日に陸軍少将、陸軍砲兵会議議長と昇任し、19年2月5日元老院議官、21年12月25日予備役に編入された。一道は山田顕義に近かったが、山田が岩倉使節団一員として一道らと欧州兵制を調査して帰国以来、山縣有朋との徴兵令施行等で対立して、陸軍少将の軍籍のみ維持しつつ陸軍から事実上退けられていた(日本大学編『山田顕義伝』1963年、『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版、1994年など)。以来、一道は、陸軍内部にこれといった支持者をもたなかったが、21年(1888年)に少将の定限年齢の58歳まで勤めて、ここに予備役に編入されたのである。

 23年9月29日には貴族院議員となり、33年5月9日に男爵に叙された(「履歴草案」[『原田熊雄関係文書』140号])。

 こうして、一道は「蘭医の家」に生まれ「祖先の家業を継ぐを本志とせられしか、兵書の翻訳のことから遂に身を軍籍に任ね」て、「当時数理の知識を最も必要とする砲兵将校として任官」したのであった。この点は、長州医者大村益次郎が兵学者となった身上とよく似ていて、これが一道と益次郎との親密交流の基盤になっていたかもしれない。それは、後述のように、津和野藩御典医の家に生まれた森鴎外と一道次男直次郎が親密になったのと似ている。

 そして、一道は、「凡そ人は如何なる人を問はず、欲望は人をして大ならしむる一の動機となるべきものである。然れども欲望によりて事をなしたる人は人間の中の屑の人間である。決して大事業をなしたるとて真の尊ぶべき人ではない、殊に武人としては然りである」(「故陸軍少将原田一道閣下の言行」[『原田熊雄関係文書』139号])としていた。一道は一家言をもってそれを実行したのである。以下、彼の行動の一端をみておこう。

 大村益次郎紀念会 上述の様に原田一道は大村益次郎と身上が似ていたが、一道は砲兵専門だったので攘夷派・守旧派武士の襲撃をあまり受けなかったのに、大村益次郎は西洋兵制専門家として廃刀令・ 国民皆兵による武士の武職独占廃止を志向したために、明治2年9月5日に攘夷派武士に襲撃され、11月5日にそれがもとで死去した。益次郎は、薩閥海軍(海軍は志願兵制であるから、徴兵制とは直接かかわらない)に対抗して、長閥陸軍の建設のために長州閥の意を受けて士族攻撃を受けやすい「危ない」国民皆兵・徴兵制の構築に従事しただけであり、故に岡山小藩鴨方出身の一道はこれに関われなかったにすぎなかった。薩長は薩長藩閥政府をつくるに際して、薩摩は海軍、長州は陸軍を分担すると言う利害調整をしたのであり、益次郎は、薩閥海軍の方向に対抗して、陸軍を閥族基盤として掌握するという長閥の意を体して、兵制確立に従事していたのである。だから、益次郎死去後に徴兵令制定を担当したのは、長州の山田顕義(兵制にも一定度通じていた一道は彼に与していた)か、山県有朋かであったが、後者が前者を挫折させたのである。しかし、この出身藩による運命の相違は、一道が陸軍、政界で活躍するに連れて、日増しに彼をして益次郎に思いを走らせたに違いない。やがて一道は中心の一人となって有志に働きかけて、大村益次郎紀念会の開催を画策していったようだ。


 なお、@最近「薩長史観批判」などということが提唱されているが、こういう観点は奥羽越戊辰戦争、按察使などの維新期東北諸研究者によってすでに古くから指摘されてきたところであり、何ら目新しいものではなく、Aまた、最近太平洋戦争の終戦は非薩長の元関宿藩士鈴木貫太郎によってなされたなどと提唱されている。だが、@薩長藩閥は、本来的に対立しがちな陸軍と海軍の調整機能を果たし、かつ日清戦争、日露戦争に際して引け際をもわきまえつつ「勝てる戦争」に留意しており、太平洋戦争のような負けることが分かっている戦争などは決してせずに、戦力がつくまで臥薪嘗胆(太平洋戦争開戦決定過程においても臥薪嘗胆論はあったが、これは奥羽越列藩同盟論的精神論の前に劣勢であった)したはずである事、A薩長藩閥に代わって登場した皇道派・統制派の軍派閥は両者の利害調整がうまくとれずに、かつ陸軍と海軍の対立の調整能力もなく、太平洋開戦が旧朝敵東北諸藩出身者によって「立派な戦い方、死に方、負け方をして敵を畏怖せしめる」という所謂「楠公精神」など半ば負け戦を前提にしていた事、B昭和天皇は、国内的には天皇の責任追及はなされないが、対外的には開戦詔勅を発する当事者でもあるから、敗戦となれば、対外的に戦争責任追及は免れず、天皇制存亡に関わる危機を迎えることになるだろうぐらいの事は分かっていたから(だからこそ、天皇制護持のために、終戦後に自らマッカサーに会見し、責任は自分にあり、極刑の覚悟[これをマッカサーの作り話とする説もあるが、筆者は、いくつかの資料などにもよって、そうではないことを指摘している]もあると発言したのである)、「勝てる戦争」に最も拘泥していた一人ともいえるのであり、奇襲艦隊が真珠湾にひたひたと立ち向かっている最後の最後まで勝利如何を深刻に懸念して、木戸幸一内大臣の助言で参謀総長、軍令部総長らを呼び出して最終確認している程であり、この天皇を騙してずるずると開戦されていった事(以上は、「小学問領域における後掲拙稿」などをも参照)などに気づいていない。そもそも開戦がなければ、終戦もないのであるから、終戦などより開戦の方がはるかに重要であり、実は現代につながることとしては戦後の過程もまた重要なのである(これも、天皇の戦争責任ではなく、天皇の戦後責任に動向に焦点を絞った「小学問領域における後掲拙稿」などをも参照)。確かに薩長藩閥は自由民権などから批判されるような諸問題をもってはいたが、薩長藩閥政府は政治的リアリズムをもち、欧米列強軍事力に対抗して陸軍・海軍対立を調整しつつ日本独立を維持する一対応ではあった事もこれまた事実なのである。


 明治14年11月4日、読売新聞の広告で、「来る15日芝公園地紅葉館に於て故兵部逮大輔大村益次郎先生記念会相催候間、旧知旧門之諸君御同意に候はば当日午後三時より御来車可被下・・会費一円五十銭御持参之事 幹事原田一道」と、初めて大村益次郎紀念会の開催が明らかにされた。幹事名には原田一道のみが記載された。

 明治15年11月15日、村田峯次郎『大村益次郎先生伝』(明治25年、41−2頁)によると、「東京芝山内の紅葉館に於て先生祭典ありしとき、賀茂水穂先生の紀念銅像を建設せんことを主唱せしに、有栖川宮、小松宮、三条公を始め席上の諸賓一同之を賛成ありければ、山田顕義、原田一道、長谷川貞雄、寺島秋介、井上教通、片岡利和、賀茂水穂の諸君同じく銅像造立委員となりて、この挙を督す。是よりして賀茂氏専ら庶事を担当し稟議奔走、醵金募集の事を務む。彫像師大熊氏、広氏 彫刻築造を担任し、東京小石川なる砲兵工廠に於て鋳造す。鋳造技手金子増燿氏 専ら鋳造の労に当たれり」とある。20年10月22日付読売新聞によれば、費用予算1万800円で、「益次郎銅像建設委員山田彰義、寺島宗則、原田一道、加茂水穂の諸氏は昨日地所を見分され、来月11日の同氏祭典までには土台石を据付けら」れる所まで進捗した。明治25年10月に竣工して、「之を東京九段坂上の靖国神社馬埓の中央に建て」たのである。一道は銅像造立委員の一人ともなって居て、東京砲兵工廠で益次郎銅像をつくることでも交渉の労をとったことであろう。

 明治21年11月8日付朝日新聞紙上の「故大村兵部大輔の紀念祭」という記事で、「来る十五日午後三時より芝公園紅葉館に於て原田一道氏外五氏が発起となり、有栖川、小松の両宮殿下を始め各大臣毛利公其他を招待し、故大村兵部大輔の第八紀念祭を執行する」とある。一道は発起人の筆頭である。これが八回目ということは、一道が陸軍少将となった明治14年が初回であることが確認され、上述の銅像建設提唱紀念祭は第二回ということになろう。

 以後も、規模は小さくなりつつも、毎年持続されたようだ。その事は、紀念会の記事こそみられなくなったが、その広告が新聞紙上に散見される事から確認される。例えば、34年11月10日朝日新聞広告では「来る十五日故兵部大輔大村先生第二十回紀念会相催候間、旧知旧門の諸君御同意に候はば当日午後三時御来集可被下候 幹事原田一道、三宮義胤、馬屋原彰、曾根荒助、南郷茂光」とある。また、38年11月8日朝日新聞広告にも、「来る十五日芝公園紅葉館にて故兵部大輔大先生第二十四回紀念会相催候間、旧知旧門の諸君御同意に候はば当日午後三時御来集可被下候」幹事原田一道、道十六、有地品之丞、松野□(不明)、塩田彦次」とある。毎年途切れることなく開催され、場所芝紅葉館や幹事筆頭原田一道には変更がない。一道の益次郎末路に強く同情する強い思い、一途さが伝わってくる。

               二 元老院議官・貴族院議員

 保守中正派 明治20年代に、佐々木高行や元田永孚ら宮廷派、長閥陸軍に批判的な陸軍中将谷干城・三浦悟郎・鳥尾小弥太らは、反欧化主義の立場から保守中正派を結成した。元老院議官原田一道も彼らに賛同して、貴族院開設に備えて、保守中正派の支持者を東北に求めだした。

 21年2月、伊藤博文首相は、不平等条約改正のため大隈を外務大臣に任じ、21年4月に黒田清隆組閣のもとで大隈外相は留任するが、外国人判事を導入案が反対派の批判を浴びた。原田一道も大隈条約改正案に反対した。

 22年8月27日付『読売新聞』によると、元老院議官陸軍少将原田一道は「鳥尾、副島、海江田の諸公とともに外務大臣大隈伯を霞が関の官邸に訪ひ」論談の模様を見ていたとして、25日読売新聞記者が猿楽町一道邸を訪問して、疑問点を質問した。記者が、この会談は「実に狭からぬものにて、事情に疎き地方の人は先づこれ等の模様を見て向背を決せんとす」と聞いているので、「茲に御実見の模様承りた」いとする。一道は、「朝野新聞が海江田より聞きたりとて掲げる記事にも間違いあり。第一余が海江田等と姓名すら名乗り合ひし事なしとありしは、全く間違いにて、余は海江田とは同僚なるが上に別懇なり。故に訪問に先立ってその意見を語り合ひし事もあり。又鳥尾も別懇の人にて今般の事に付ても談話したる事あり」と、海江田信義、鳥尾小弥太とは昵懇だとする。

 記者は大隈会談の核心に迫る。記者が「談論の際、大隈伯の答へたまはざりし事ありや否や」と尋ねると、一道は「肝要なる点については十分に答弁ありしと思はれず」と答えた。記者は将軍がこう述べたのは、「今日まで条約改正に反対せらるる所以にして、別に怪むに足ら座れば、大隈伯答へ玉ずなど諸新聞に記したるはこの辺の事を酌量せらる記事といふべし」と注釈する。記者が、「辞職勧告云々の事は最初より御打合せありし事にや。又閣下が大隈伯を訪問せられたる目的は如何」と問うと、一道は、「辞職勧告の事は元より打合せたる事なし、且余は今般の事につき大隈の心事を探らんとして趣たるなり。故に種々論談の末、鳥尾が大隈に向って辞職勧告の意を述べし」たが、大隈は「身を犠牲にして遣って見る」と言ひし故、「一同暇を告げて帰り理たるに過ぎず。尤も余は大隈が条約の改正案を以て不完全ながら止むを得ずと自認せるを聞き、最早言ふ処なしと思ひ切りたり」と、この大隈の外相辞任の言質は得られなかった。

 記者が「大隈伯の答弁不十分なりしとは如何」と尋ねると、一道は、「先づ第一外交文書の事は誰しも三通ありといふことを聞き居れるに、大隈は僅かにその一通を示したるのみ。この一通は、彼の大審院に外国出生の判事を雇入るる一件にて、他の二通を示さざりし如きは実に余の満足せざる処とす。当時誰かが大隈に向って拙者は法典編纂に関する約束を記せし外交文書を見たりことありと述しに、大隈はその約束云々の事実に相違せる旨弁明を為す以上は、この一通の外に尚外交文書ありし事、明らかなるに、これを秘して示さざるは甚だ不満なりといはざるを得ず」とした。22年10月、大隈は、玄洋社の一員(来島恒喜)から爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、外相を辞職した。

 23年1月11日付読売新聞によると、「同党中正派にては昨日午後六時より小石川関口町なる」鳥尾子爵の自邸に於て原田元老院議官をはじめ同派中の者が集会して運動上の会議を盡した」のであった。恐らく、東北に同志を求める事などが検討されたのであろう。つまり、明治23年3月には、元老院議官陸軍少将原田一道は、「仙台より秋田地方へ赴きしが、右は全く保守中正派員募集の為めにして、両三日中同氏は再び仙台へ立ち戻る都合のよし」であり、「右は来る廿九日頃同地方の同主義賛成者に仙台市清水小路清寄園に会し、結党式を施行するが為めにして、右結党式を施行したる上は、同地方派勿論奥羽各地方へ数名の遊説員を派出し、大に党員を募集する見込にて、猶ほゆくゆくは仙台に於て一の機関新聞をも発行する計画」(明治23年3月25日付『読売新聞』)であった。

 貴族院が開催されると、一道らが中心となって、院内に保守中正倶楽部の結成と条約改正反対をを画策した。つまり、24年4月16日付読売新聞によると、「上院における非条約派の一団結」という記事で、「貴族院議員近衛篤麿、谷干城、二条基弘、西村茂樹、海江田信義、三浦安、原田一道、富田鉄之助其他数十名の諸氏は青木大臣の条約改正案に対し、未だ公然運動に着手せざるも、隠然既に一団体をなして、之に反対するの色ありといふ。今これ等の諸氏の意見を聞くに、何れも公然と一団体を形造りしものにあらざるより、悉く其議論の一致せるや否やは知る能はずと雖も重なる点に付ては左の意見を抱き居らるる」とした。彼らの意見とは、「内地雑居は条約改正に就き止むを得ずして許佐々理を得ず」、「土地所有権は決して与ふべからず」、「沿海貿易は之を禁ずべし」、「税権は一時に恢復すべし」、「法権は一時に恢復するを得ざるも、数年内に全恢復の見込みあらば可なり」というものとする。

 こうして、条約改正反対の一つの軸として保守中正倶楽部が成長してゆくのである。24年8月15日朝日新聞記事「保守中正倶楽部の組織」には、「鳥尾、原田、堀江三将軍の主唱にて保守中正倶楽部なるものを組織せんことを企て、貴族院議員中にも十余名の賛成者あり。衆議院にては、赤川霊巌、赤松新右衛門外数氏の賛成あり」とあって、一道が鳥尾小弥太、堀江芳介(陸軍少将)とともに主唱者となって保守中正倶楽部の結成を推進していた事がわかる。

 以後、一道は、山県有朋批判の三浦、鳥尾ら「一言居士」正義派と行動をともにしてゆく事になる。長閥内部にも山県批判派が形成されていたのである。三浦梧楼(1847年生まれ)についてみておけば、木戸孝允(1833年生まれ)が彼の「親分」であり、西南戦争時には皆が煙たがる山形有朋(1838年生まれ)を巧みにけん制したりしていたが(『観樹将軍回顧録』政教社、大正14年、117−9頁)、明治十年木戸の死去後は「孤軍奮闘」して山県ら藩閥打破に立ち向かうことになった(『観樹将軍回顧録』121−3頁)。三浦は、陸軍野外演習などについて、山県に改善意見を述べたりするが、山県は「裏面では始終反対する、妨害する、此れで我輩の意見は行われぬ」(『観樹将軍回顧録』195−204頁)ことになり、明治19年7月26日山県の策謀で三浦が熊本に左遷されることになると、遂に三浦は辞任を決意したが、明治天皇の配慮もあって同年8月予備に編入され(『観樹将軍回顧録』206−211頁)、以後山県ら藩閥を情実人事などとして批判してゆく事になったのである。

 ただし、三浦、鳥尾らにすれば、一道は「同列」とはみなしていないようであり、彼らの回顧録(鳥尾[『時事談』中正社、明治24年、渡辺鉄城『鳥尾将軍演説筆記』明治23年など]、三浦[『観樹将軍縦横談』実業之世界社、明治44年、『観樹将軍回顧録』政教社、大正14年])には一道の名前はほとんどないのである。長州出身の陸軍中将・子爵の鳥尾小弥太(明治9年陸軍中将、明治17年子爵)、三浦梧楼(明治11年陸軍中将、明治17年子爵)からすれば、岡山小藩出身の陸軍少将・男爵の原田一道は「格下」(例えば、陸軍中将は教育総監・師団長に任じられるが、陸軍少将は本省局長・旅団長どまりである)か、或いは一道が学究的・個性的すぎて扱いづらかったのかもしれない。  

 政府批判家の矜持 原田一道は、確かに鳥尾らと政府批判はするが、それは政府に不平があるからではないとする。

 つまり、一道は、「鳥尾将軍と共に一方の不平家なるやの如く云ひ做すは大なる誤り」とする。一道は、「現政府の処置なり何なり国家の為めに不利益なりと信ずることは忌憚なく之を非難すれども、予は決して当世に不平あるものにあらず。殊に現政府が此の老余の躯を優待するに至っては古今東西其の例に乏しく、数年前より之れを云ふ仕事もなく閑職に在て半年、尠からざる俸給を貰ひ近頃も・・大金を頂戴して懐を暖めたるが如き仕合せのみ打続きて冥加至極に思ひ至れり」とする。しかし「金を貰ったとて国家に不利益と信ずることは憚りなく言立て、何時も遠慮はせぬぞよ」(明治23年11月17日付『読売新聞』)と、怪気炎を上げていた。

 僧園建設の提唱 読売新聞記事「原田一道、鳥尾小弥太の諸氏が発起となり小石川目白台新長谷寺(戦災で焼けて現在廃寺)に僧園なるものを設立」(明治24年8月1日読売新聞)によると、明治24年6月に岩崎義右衛門、原田一道、鳥尾小弥太、何礼之(内務大書記官、元老院議官、貴族院議員)、立花種恭(元三池藩主)、長瀬時衡(元軍医監)、阿南尚(検事)、桜井能監(宮内官僚)、沢柳政太郎(文部官僚)、三浦悟桜(長州、藩閥打倒派)は「僧園設立に付 大方の賛同を請ふ趣旨」を公表している。彼らは、藩閥打破など、一家言を持つ人々である。

 それによると、彼らは、@「仏教の功徳は・・広大」であるが、A実際にはこの功徳は作用せず、現在人々は「私利私欲に向ふて公利公益を思はず」、「国家の将来に於て実に寒心に堪へざるものあらんとす」とし、Bそこで「人々の信仰をして正しきものならしめんとせば、先真正の仏教を興隆せんとせば必や持戒如法の僧侶に依らざるべからず」、「如法持戒の僧侶を養成」し、「其業成り其行修まるの後は広く世の尊信を得て道徳を維持し徳風を発揚する事必せり」とした。聖武天皇が世の乱れを仏教で対処しようとして、鑑真を招いて戒律によって僧を育成しようとした事と似ている。

 軍事拡張費の批判 「原田一道の放言」(明治24年10月1日付付『読売新聞』)によると、「鳥尾、久我、日野、原田其他保守派の有志一同 大和倶楽部(貴族院内)に会合して政治上の談話を為す折柄、一人口を開いて原田将軍に向ひ、陸海軍拡張費の事を質問す」ると、原田将軍は「一声高く『ナニ今日の陸海軍などはイクラ拡張しても糞にもなりません。丸で金を溝(ドブ)に捨るようなものです』と放言せるには、流石の鳥尾将軍等もしばしアツケに取られ、『原田も随分思ひ切ったことを言ふワイ』と一同将軍の顔を打守りて無言なりし」とある。

 しかし、この記事は原田一道の本意を伝えておらず、一道はこの記事の取り消しを求めた。10月3日、読売新聞は、「原田一道氏の放言と題せる一項は多少相違の廉あり。其議論稍々込入りたるものありと言へば、一先づ茲に全文を取消し、更に同氏に聴得たる上掲載する処あるべし」とした。

 政治的行動の抑制 この放言事件の後、還暦を過ぎた一道の政治的動向は新聞に報道されなくなる。

 それでも、27年7月に日清戦争が起きると、27年8月17日付読売新聞は、「将軍の意気込み」という記事で、「軍人の肩書ある中将谷干城、同鳥尾小弥太、同曽我祐準、少将津田出、同原田一道、同山川浩の諸氏は身苟も軍籍にある以上はこの国家多事の際に当り、軍人たるの覚悟なかるべからずとて、目下相往来して協議する処あり。殊に津田出・原田一道両氏の如きは耳順(60歳)超えたる高齢にもかかわらず、朝昏往来して日清事件に対する意見を闘しつつありといふ」と報じている。

 また、30年4月13日付朝日新聞の「軍人保険会社の発起」という記事で、「榎本武揚、松本順、原田一道の三氏其外数十名は同社を発起し、一昨日新富町青柳に於て発起人総会を開き、創立事務所を東京、大阪の二カ所に置くこととし、創立委員には右三氏外十六名当選せり。右は主として軍人軍属の生命保険を為し、其利益を割き手赤十字社に寄贈するの計画なり」と報じられた。30年6月27日には、読売新聞が「軍人生命保険会社の出願」という記事を載せ、これが存命中の一道が報じられた最後となる。それによると、「榎本武揚、松本順、原田一道外四十名発起、資本金百万円の軍人生命保険株式会社創立事務所にては過般来設立申請の準備中なりし処、此程協議まとまりしに付、本月中其筋へ出願する筈と」ある。


 死去 一道は、明治43年12月8日に死去し、新聞でも報じられた。12月10日原田家「死亡通知」では、親族として、原田熊雄(嗣子)、原田龍蔵(一道の弟の家系か)、原田貫平(一道の弟原田元齢の家系。海軍造船大監、一道の甥)、能勢静太(一道姉鷹野の家系)、大蔵平三男爵(騎兵監、陸軍中将、同郷岡山出身)、中村雄次郎男爵(砲兵専門の陸軍中将、一道の養女・小糸くにと結婚)、有島武(熊雄妹の信子の嫁ぎ先有島生馬の父)とともに故豊吉妻照子養父の高田慎蔵も名を連ねていた事は言うまでもない(『原田家文書』142号文書[カッコ内は筆者])。 


 こうした一道の藩閥政府批判、禁欲的仏教精神、軍部主流派批判などの精神は、原田豊吉、原田直次郎、原田熊雄に受け継がれていったのである。


                  三 原田家の資産的基礎ー猿楽町本邸 

 明治4年11月5日付御沙汰(『弾正台御用留』明治2〜4年[東京都公文書館])によると、「本郷元町1丁目50番地所家主樋口茂平儀 駿河台原田兵学権頭拝借地長屋堀上より還幸の御行列覗見いたし候始末弁官より御沙汰可有之候段御達」とあり、4年11月には一道は駿河台の政府よりの拝借地に住んでいた事がわかる。7年2月13日付東京府知事大久保一翁宛エム・エム・ベール書簡(『明治七年 書簡留』上、11号文書[東京都公文書館])によるは、「現今駿河台北甲賀町十二番地住居罷在候岡山県原田一道」とあり、その拝借地とは北甲賀町である事がわかる。こうして、一道は、当初は駿河台の秋葉原方面に住んでいた。

 この時期の「拝借地」の法律的性格について、「三田の屋敷」1万3千坪を拝借地として受け取った福沢諭吉は、「地租もなければ借地料もなしあたかも私有地のようで」あるが、あくまで「拝借」だから「いつ立退きを命じられかもしれず」、東京市中に拝借地は「はなはだ多」く、「いずれも不安心に違いない」とする。そこで、福沢は「これをお払い下げにしてもらいたいとさまざま思案」した。明治4年に「政府は市中の拝借地をその借地人または縁故ある者に払い下げるとの風聞」が聞こえ、東京府の担当課長福田と交渉して、500円余という「無代価」同然で取得した(福沢諭吉『福翁自伝』角川書店、昭和43年、211−2頁)。東京郊外の地価は非常に安かったか、或いはまだ売買市場がなく交渉次第で低廉にできたのか、いずれにしても、福沢諭吉は三田を極めて安く取得したのである。原田一道も同じような境遇で、この駿河台北甲賀町拝借地に住んでいたが、役人である限りは住み続けられるということもあってか、これを払い下げてもらおうという動きはみられなかった。 

 しかし、9年11月7日砲兵本廠御用掛兼勤するあたりから、原田一道は、東京砲兵工廠通勤により便利な猿楽町に移転したようだ。『原田先生記念帖』(明治美術学会、学芸書院、2015年[明治43年発行、非売品、復刻版])にも、9年に原田直次郎が駿河台北甲賀町から神田区裏猿楽町に遷るとあって、これが確認される。

 東京砲兵工廠の周辺には、以後陸軍・一般技術者の住宅や工員住宅が増加していったはずである。例えば、小林豊造は明治32年に東京工業学校工業教員養成所金工科を卒業して、原田邸より砲兵工廠に近い所に住んでいた。まだ確認する資料はないが、恐らく彼も東京砲兵工廠に関わりがあったのではなかろうか。因みに彼の息子は周知の小林秀雄であり、秀雄は明治35年にここ猿楽町で生まれた。

 この猿楽町原田邸は、文久3年には、五人の旗本(山本多三郎、中山主馬、野山新兵衛、火野宋女、久津美又助)屋敷からなり、3000坪の豪邸である。明治初年の銀座地価は1坪4.87円(小田めぐみら「明治初年の東京銀座における地価分布の地域差」『東京学芸大学紀要』2014年1月)だから、この半分弱の地価2円でも購入するには6000円、3円で9000円の大金が必要である。当時の大佐の給料(月250円、年3000円[『官員録』全、明治8年9月])では、必ずしも購入は容易ではなかったであろう。この豪邸取得経緯で考えられる事は、アーレンス、ベア、高田慎蔵ら御用商人の援助或いは便宜である。御用商人が高田慎蔵など日本人名義で土地をまとめ買いし、家作を建てて、その土地・建物を原田一道に低廉で貸し付けたのではなかろうか。現在の底地価格、借地権価格は2:8乃至1:9と、圧倒的に借地権価格は高いが、明治初年では地主は借地権者原田一道にどのようにでもに便宜をはかる事ができたであろう。

 直次郎弟子となる小林萬吾が、21年2月松山中学図画教師堀越喜三郎の添書を持参してから上京し猿楽町原田邸を訪ね、「門を這入ると、すぐ向こうに赤煉瓦の屋根の傾斜の急なのが目についた」とし、「何んだか西洋にでも来た様な心持がした」(『原田先生記念帖』39−40頁)と、西洋風原田邸を述べている。なお、本郷の鍾美館の開校は翌年である。

 その後、原田一道は、自己資金(上述のように政府から資金的に手厚い待遇をうけている)で家作を増やしていったようである。この点について、有島暁子(熊雄妹の信子の嫁ぎ先有島生馬の娘)の証言(有島生馬『思い出の我』あとがき)によると、「ここ(猿楽町本邸)に洋館2棟、日本家屋を5、6棟建て、原田家の総大将である貴族院議員は、ひとつの家に飽きると次の家へ順番に引越しては住んでいたらしい。洋館の横は崖になっていて、崖の上に半分宙づりになったような茶室『椿荘』があった」ようだ。さらに、有島暁子は、「鈴木町に原田の借家が二軒あった、一軒は洋館で支那の学生寮になっていたが、その後ケーベル先生にお借し(ママ)していた」と記している。後述するように、これは記憶間違いであり、駿河台鈴木町には、中国留学生会館とケーペル居住洋館の二つがあったのであり、この土地と洋館は照子が婚姻の時に持参したものと推定され、照子の判断で父と同郷のケーべルに貸し付けたりしていたのである。

 大正11年5月、原田熊雄は、「欧州社会事業視察」の渡欧資金捻出のために、猿楽町原田邸3千坪を40万円で売却した。既に大正7年に第一次大戦が終了して、反動恐慌に見舞われ、大戦景気で成長した高田商会は資金逼迫していた。恐らく熊雄もこれに気づいた上で、一部を渡欧費用にし、残金は「高田商会に預託して留守家族の生活費に充てる」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上、51頁)ことにしている。銀行に預けずに、高田商会に預けた背景としては、元々原田家土地財産は照子婚姻に淵源する「高田家からの持参金」という側面があったからではなかろうか。



                          



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